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日本計量新報 2015年3月8日 (3048号)

夏目漱石が坊ちゃんで冷やかした江戸っ子の軽佻浮薄

上等な和風割烹で接客する女性の係が会話のなかで何気なく「もちろん」という言葉を口する。変だぞ、と思って身の上を問いただすと大学生がアルバイトで店にでているのであった。世のなかは「ちなみに」「ざっくりと」「しんちんたいしゃ」(新陳代謝)しているらしい。東京神田の神保町は大学と古本屋の街であり、出版社の編集者と学生がカレーを食べるから名物のカレーライスの店が多いらしい。ラーメン屋はどこにでもいつでも新しい店が出店して、いつしか別の飲食店に変わっている。
 店がそのようにかわることを称して「新陳代謝」ということばを気軽に使う人は多い。「店が代わった」といえばよいのに難しい漢語で、しかもその言葉に付随する固着した意味があるのに、ただ店が代わっただけのことに新陳代謝の言葉を当てはめるのだろう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(新共同訳)とヨハネによる福音書にある。はじめに言葉があって、言葉は神と共にあり、言葉は神であった、のであった。だから先に「新陳代謝」という言葉があってラーメン店が焼き肉屋に代わるのは新陳代謝という言い回しなのである。
 人は物事をみて物事を考えるのに言葉を使う。言葉によって物事が整理され、分解され、再統合されて、概念ができあがり、それが総合されて世界観などが形成される。それは思想であり文化であるかもしれない。それはそれでよいとして、初めに言葉を用いるのではなくて、物事を観察してそれに適する言葉を選びだせばよい。テレビでもラジオでもそのへんの若い記者が初めに新陳代謝ありきで、その概念なり意味なりを物事の初めに据えて、そこに現れるすべてのものを処理してニュースの内容にすることが当たり前のようになされている。
 スタップ細胞に関する一連の捏造事件は、初めにスタップ細胞ありきで、そこにES細胞を混ぜておけばスタップ細胞があったようにみえて、それを周囲は「ちなみに」「ざっくりと」その通りだと思いこむのである。わからない事柄の内容を見いだすことを目的に計測や分析といったことがおこなわれる。計ったことによって解き明かされることをこそ大事にしなければならないのに、初めに結果ありきの計測がときにおこなわれる。
 夏目漱石は坊ちゃんをとおして江戸っ子の軽佻浮薄(けいちょうふはく)をはやしたのか、けなしたのか、よくはわからないが、今の日本に住む人々は坊ちゃんと同じように軽佻浮薄にみえる。軽々しく物事を考えたり、物事を単純にああすればこうなる、と思うようなことをしているとスタップ細胞事件のようなことがいつでも起きてしまう。計測は中立にして公正かつ適正をもってむねとし、計測の精神で自らを律して、世を生きていくことが大事だ。

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