気持ちよく働くことができて、働けば何とか生活できるのが、日本のこれまでの社会であった。 しかし景気が後退する中、自動車産業、電機産業、ほかの主要産業が事業縮小の第一段階として人員の削減という行動に出ている。労働組合が「正社員クラブ」と揶揄(やゆ)されるような状況にあり、非正規雇用が常態化している日本の労働環境あるいは雇用状況のもとにあって、非正規雇用の従業員は、事業の拡大と縮小の調整装置のようになっている。 健康で文化的な生活を営む権利が日本人にはあることになっていても、社会と経済がこれを実現する仕組みになっていないのでは、それは絵に描いた餅(もち)と同じである。国の目的は国民が生活していけるように社会と経済と文化の仕組みを練り上げて、それを確実に実行していくことである。 教育は国民が協力して生きていける文化を創り上げる土台である。教育はまた、経済・社会活動を推進するに足る知識・教養と必要な技術を身につけるような働きを全うすることである。 分からないことまで教える必要はなく、分かることをしっかり教え理解させることこそ、教育がなしとげなければならない基本である。社会に出てしまうと高校受験のための試験問題でさえ難しく、大学受験の問題となるとほとんど解くことができない。このような問題を教え込んでも、実質上はほとんどの学校生徒がついて行けないのだから、日本の「学校教育」は一体どうなっているのだろう。 20世紀、日本と世界は戦争を繰り返し、人が安心して暮らしていく基盤を壊していた。いまの日本に戦争がないことは素晴らしいことであり、これから先も戦争をしないような外交政策と国の運営をしていかなくてはならない。 それと連動して、国民が働く意欲と生きていくための夢や希望を持てるような社会を築くために大いに努めることである。自動車、電機などの製造業が世界の市場をも対象にして大きな働きをしていることは素晴らしいことである。 その一方で、GDPの60%がサービス産業によって占められていることを十分に考慮することである。「情報社会」という言われ方をするにもかかわらず、それが産業上でどのような働きをするのかの理解は十分ではない。土木工事や農作業に用いられている機械がそれまでの人の働きの100人分、1000人分以上の働きをしていることは、実感することができる。同様に、情報社会でも、これまでの社会のさまざまな働きが、パソコンやインターネットなど関係ツールなり社会基盤の利用によって土木機械や農業機械あるいは産業機械と同等以上の働きをしていることを十分に想像してしっかりと理解することである。 そのような状況と重ねあわせて情報社会に対応する計量計測機器の計測のシステムを想定することである。コントロールのための情報獲得を目的としていた計測は、今後情報化が進めば、その計測なしでも物事が適正に動くようになり、意義を失うかもしれない。 計測はいつでも目的を考えなければならない。そして計測の性質を十分に吟味することである。作用と反作用のあいだに緻密な計測を介在させるよりも、それを省くか、別の要素で代用することを目指すことだ。 計量制度は社会基盤だと述べているその一方で、法律が定めた取り引き証明用のハカリの定期検査の実施に大きな漏れが出るような愚かしい仕組みにしてしまっている一部の地方公共団体の姿勢がある。ハカリの定期検査に象徴される計量法の適正な実施運営の欠如傾向は、日本の国の「国民が健康で文化的な生活」実現を怠る傾向と重なっているように見える。