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日本計量新報 2015年7月19日 (3065号)

自分が文化系か理科系かではなく当たり前のことを知っておく

上級学校に進んで教育を受けるほどに人はバカになる、と昔の人は考えていたことを養老猛司氏が東京大学に進むとき近所のオバさんが語った言葉として伝えている。高等教育も大学院の修士課程や博士課程に進むほどに、狭くなっている専門領域に突っ込んでいくのであるから、ここでの学習や研究では広い知識を備えることとは縁がなくなる。博士課程で習得した知識などをそのまま使って世のなかの役に立つほどに、大学教育や研究と経済や産業社会は密着していない。そこですべきは専門知識とあわせて総合した知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること、である。
 高等教育を受けることによって、教養としての先人の知的蓄積を継承し、未来を構想する知識と人間としての品性を磨くことができるとよいのだが、世のなかの様子をみていると高等教育を受けた人にそのような様子を際だった形でみつけだすことはできない。そもそも学んで教科の試験でよい成績を残せたとしても、それが身に付いているかということになるとそれが怪しい。リンボウこと林望氏は大学教員をしていて、2013年に『謹訳 源氏物語』全10巻で毎日出版文化賞特別賞を受賞したその人は、現役で慶応大学文学部に入学して、一般教養科目の数学を受講したところ最近までできていたそれが、まったくわからなくなっていたと『帰らぬ日遠い昔』に書いている。
 世のなかも企業も公務員も学校でも感受性豊かな人であることを求めているのが実際である。営業をするにしても、技術開発をするにしても、モノをつくるにしても、相手を思いやり、世のなかのことを考えて善意で立ち働かないことには、物事が上手くいかない。大学を卒業して入学してきた者たちに情緒豊かになれ、と語りかける計測企業の経営者がいる。情緒豊かでない公務員や学校教員は始末が悪い。すべてが杓子定規に処理されては世のなかがギスギスする。法律の規則の間には甚だしい矛盾があるのが常だから、規則通りに進めたら止まってしまう業務があることを知るべきだ。教員などは物事を教えるが、どれだけ意味を知っているか疑わしい上に、教えたはずの数学が高校を卒業した途端にわからなくなるのだから、教えた意味を問い返したらいい。
 いまの政府は国立大学では教員養成や人文科学系統の学部などをなくした方がよいという指針を出している。私学はそれをやってよい、やったらよい、というのは論理の矛盾である。教養のないところにまともな経済の芽は育たない。品性にしても同じであり、ユーモアは社会を和やかにして、経済が豊かに育つ土壌をつくる。功利と実用だけで推し進められる社会は行き詰まる。自動車は動く、壊れない、というだけではなく、人の感性に適合しないと売れない。家電も同じであり、人の情緒と融合しない商品と商行為はしまいには屑籠に入る。前述した養老猛司氏は「文理を分ける発想はやめたほうがいい。文科も理科も関係ない。自分が文化系か理科系かなどということにこだわるのではなく、知っておいて当たり前のことを知っておいたほうがいい」と述べている。
 文部省(現在の文部科学省)の教育制度改革が成功したと思われることはほとんどない。人とは生身のモノであり、身体ができ情緒ができ、それと相まってその人が渾身の力を使って身につけた知識や技術だけが役に立つものらしい。その基礎となるのは「読み書き算盤」であり、人としてあるべき事を頭にではなく身体にたたき込むことである。このことを抜きにしての教育など意味がない。

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