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それからのメートル法−ヤードポンド圏からの離陸支援を− 多賀谷 宏
インフラストラクチュアの課題
現代社会における度量衡単位の切換に要するコストの大半を占めると予想されるこの課題については、その及ぼす範囲がきわめて広いことは容易に想像されようが、便宜上ハードウエアとソフトウエアとに別けて、特徴的なポイントのみを記しておく。
◇ハードウエア面
各種施設・設備と付帯する計測機器類の更新
これは社会資本設備のあらゆる分野にかかわってくる問題であるが、その仕組みが度量衡単位の切換にどう関連してくるかは分野によって多様である。その中で我々の日常生活とすべての生産活動を支える基盤であるエネルギー分野を例にして、19世紀末から20世紀末までの百年間の推移を概括して、単位切換とそれによる計測機器類の更新に及ぼす背景を観ることにする。この例ひとつでもで100年間における利用システムの時代的な変化、 規模の拡大がどれほどのものになっているかを感じとる事ができる。
○エネルギー分野を例とするハードウエア切換の背景
軍事的な利用は別として社会構造的なエネルギーの利用は産業部門・家庭部門・業務部門・運輸部門と大きく4部門に分けることができる。そしてそれぞれが用途別には加熱用・照明用・冷暖房用・給湯用・厨房用・動力用とに分けて考えると、具体的なハードウエアのイメージが掴み易くなる。もちろん部門によって各用途別の占める相互の比率は大きく様変わりするし、付属する計測設備の種類や規模もこれに対応することになる。
メートル法が産まれる18世紀末〜19世紀初頭にかけて人々が使用していた家庭部門のエネルギーの用途といえば、まだ冷房用は無く暖房・給湯・厨房用で、その主力は一次エネルギー源と呼ばれる採取したまま、ないし若干の加工をした程度の薪、木炭類が主力で、そ れに照明用の植物油類があった程度と考えてよいだろう。しかし同じ一次エネルギー源であってもイギリスにおける石炭の利用法の発展は産業革命以後、産業および運輸の2部門で加熱用と動力用の需要を18世紀末に急速に拡大した経緯がある。
よく知られているようにワットの蒸気機関は19世紀の世界を変えたが、それが19世紀末から20世紀に入ると新たに電力や都市ガスという形態が産まれ、採取した一次エネルギー資源を、より使い易く変換した形の二次エネルギーとして利用できるようになる。二次エネルギーが出現したことで全く新たに冷房用という需要が加ってきた。現在では家庭部門にさえ冷房需要が入りこんでいる。とくに電力は利用上・制御上はもとより、エネルギー の輸送面での特性と簡便さにおいて他のものと比較にならない特徴を持っていることから急速に需要を拡大した。この電力需要の急増にともなって発電形態も大きく様変わりし、水力依存から火力主体に移り、さらに発電用の一次エネルギー資源も石炭・石油のほか化 石燃料でありながら100年前には使えなかった天然ガスが加わり、20世紀後半には原子力 という全く異質のエネルギー利用が始まった。しかし二酸化炭素や窒素酸化物などの排出物急増による地球規模の環境問題の深刻化や、化石燃料資源の枯渇問題もあって、太陽・ 海洋・風力などの自然エネルギーまでも活用せざるを得ない状況になりつつある。
さてこれらのエネルギー利用には必ず、発生〜採掘・転換(変換)・輸送・精製・配分(配電)・消費・廃棄・回収などの過程が存在し、その全域において維持・管理過程がつきまとってくる。つまりこれらのほとんど全ての過程において、なんらかの計測機器の介在を不可欠にしている。この内、電力関連についてだけは切換の問題は少ないと見てもよいだろう。なぜなら電気は発見と利用が19世紀末というメートル法誕生とほぼ同時期に発達したものなので、今日すでにアメリカ・イギリスを含め世界的に電気単位はメートル法に一本化 しているとみてよいからである。それは私達の身近に当初からキロ・ワット・アワー(kWh) だけがあって他の競合単位が存在しなかったことを思い浮かべていただければ頷けよう。しかしアメリカ・イギリスの場合、他のエネルギー利用面ではヤードポンド系に代表され る旧来型の単位の使用が圧倒的に多いのが実情である。
以上、単位の切換が社会的インフラのハードウエア面に及ぼす範囲ついてその一端を見たわけだが、エネルギー関連だけでもこのように広範な影響域が存在している。
次に現在までの100年間、ヤードポンド圏の実績が国際的にも際立って優位にあった分 野に固有の課題として軽視しがたいハードウエア関連の問題例を代表的な3分野について触れておきたい。
○単位切換に固有の課題を抱える3分野
石油関係:アメリカを旅行した人が必ず目にするのが、各地に点在する昔風の小型の石油掘削ポンプが今でも稼働している風景である。それは資源国を感じさせるだけでなく、石油利用を最初に実用化した国であるという思いを呼び起してくれる。一口に石油といわれるが、その中身は原油・揮発油・ナフサ・ジェット燃料油・ガソリン・灯油・軽油・重油と広い。かつて一時期には世界最大の産油国だったという実績を背景としてアメリカの石油産業は、今もなお最大の石油消費国であることもあって、API(アメリカ石油協会)規格が、生産から消費にいたる計測器を含むすべての石油機器分野で、世界標準規格となっている。しかもこれは日本を含むメートル圏の各国といえども、こと石油関係の分野については広くAPI規格が適用されている状況にある。
国防・武器:全世界に展開しているアメリカ空軍・陸軍・海軍・海兵隊の4軍をはじめイギリス軍が保有するものを含め、武器弾薬類それを支える兵器産業や軍事施設、さらにアメリカの場合、国防予算とともに膨大な額をもつNASA関連の宇宙開発関連設備、これらはいずれもヤードポンド系単位が主体で運用されている。もちろんこの分野ではアメリカ・イギリスとも設備のみならず将兵以下の軍事要員および航空宇宙関連従事者の再教育と いう大きな課題が密着するが、これについては後のソフトウエアの項で詳述する。
運輸・通信・流通:後述するようにイギリスでも道路標識が切換の最大の難関だとされて いるが、国土の広いアメリカについてみれば一般旅客や貨物の陸上・海上・航空用運送機材、空港からハイウエイ・一般道路の標識および料金システム関連(日本の約20倍の国土面 積、道路総延長で7〜8倍)、鉄道(貨物輸送量トンキロで日本の約30倍)、郵便網などの 他、2億人の日常生活を支えている民生用機器や食糧等の一般消費物資の流通機構、さらに上下水道、エネルギー(石油・天然ガス・LPGなど)などの生活関連産業設備インフラにおいて、現状は電気関連以外いずれもヤードポンド法が主軸となっている。特に運輸部門での石油系燃料については日本の4〜5倍の消費量であることは、自動車の日常生活浸透度と国土の広さの関係が設備規模で極めて特徴的であることを意味している。さらにこれもアメリカが主導権を持つ航空輸送関係(飛行キロ数でも日本の10倍以上)の分野では、航空産業発祥の実績が物を言い、日本を含み全世界的に航空機の製造から運航システムおよび管制器材にいたるまでフィート・マイルが専用されていることは今日、広く認識され ている通りである。
◇ソフトウエア面
これまでのメートル化達成国における度量衡制度切換の歴史的経過を踏まえると、切換を前提としたとき国民各層に対する単位換算の訓練と新単位の習熟を早める基本条件として、以下のような社会的環境の整備が必要となってくる。
○知的水準の改善:今日では諸外国に比べ意外に保守的とさえみられているアメリカ国民の風潮や、“伝統的”慣習単位に執着する中堅層のイギリス市民を、どこまで押さえ込んで新しい度量衡制度への切換を理解させ習熟させ得るか、また多民族国家アメリカが抱える平均的教育水準のアンバランス(識字率85%は先進国中最低とのデータも見受ける)を 切換に際してどのように乗り越えていくかの問題がある。これについては後に切換助長条件との関連で詳述する。
○生活水準の均質化:アメリカにおける貧困者層の増加(英国の3倍、フランスの5倍、ドイ ツの7倍とされる)傾向は、生活水準の重層構造を招き、なによらず社会的改革への合意を難しくしているだけでなく、日常生活習慣に直接関連する多様な新旧計量単位の換算や、新旧計量器の買換などに特段の経済的な支援処置が必要となろう。この種の配慮によっては切換実施のいづれかのレベルでの公的な財政的負担の増加が予想される。これについても後に切換助長条件との関連で詳述する。
公的〜準公的分野のソフトウエア面における課題
前記の一般庶民の知的水準の課題は社会生活における個人消費面といった私的部分だけではなく公的部分にも大きく響いてくる。とりわけ国防関係者には大きく関連してくる。例えば膨大な兵器〜軍事施設を直接運用する第一線級兵士用に蓄積されたオペレーション・システムの切換と、これに伴う膨大な兵器操作マニュアルの切換および習熟速度にも深 く関わることが予想される。それはたとえ一時的とはいえ決して短い期間では済まず、瞬間的対応を常時求められている指揮系統に乱れを招いたり、有事への即応能力の低下につながる怖れもあって、こうした課題が国防力に及ぼすマイナス要因として切換への有力な反対理由とされよう。かつて真珠湾攻撃からアメリカが立直るのに約2年を要したといわれ、当時はそれが許された。しかし今日では実戦兵器の格段の差もあって有事対応にそれだけの時間的な猶予が与えられる筈もない。おそらくこの分野における障壁がアメリカでは最大の難関となろう。また公的ソフトの部分においてはアメリカの場合、早くから民間航空が極度に発達した経緯もあって、運航・管制面において全地球的な覇権実績を保持し ており、その優位は無視しがたい。この分野ではむしろ逆にメートル圏の中にもフィート・マイル制からの切換には新たに大きなコスト負担が予想されるとして、今更の切換に消 極的な同調国が現れる事態もじゅうぶん予想される。このことはグローバルな課題だけに、ことによるとメートル法統一達成への最大の課題になるかもしれない。
この他ソフト面では、過去に切換を済ませた国家群には見られなかった新しい課題として、20世紀に急速に発達した民生部門の製造過程や流通サービス業関連の従業員向けのマニュアル類、製造ないし業務管理用コンピューターソフト類を一斉に書変え、改編することが、今後21世紀以後の単位切換に取り組む両国にとって新たな負担となってくるだろう。アメリカの人口規模・社会構造・産業分野の裾野の広さからみて、このコストは決して少なくない額に達しようし、イギリスにおいても軽くないものと見られる。