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それからのメートル法−ヤードポンド圏からの離陸支援を−   多賀谷 宏              

メートル法が欧州のみで発足しアメリカ・イギリスでは見送られた背景

 

 さまざまな度量衡単位の横行で長いあいだ混乱を極めていたことから、各国共通の度量 衡単位を、との欧州各国に醸成されていた気運に乗ってフランスの提唱で事は始められたが、もちろんこの時アメリカ・イギリス両国にも1790年に最初の協力要請がなされている 。しかし革命期というフランスの政情不安をはさみアメリカ・イギリス両国への説明不足 や密接な連携プレイに欠けていたふしもあった。今日われわれが考える海底トンネルで結ばれたドーバー海峡や、コンコルドで2時間の大西洋を前提にしていては、当時の政治的 、地理的なヨーロッパ大陸とイギリス・アメリカとの間の距離感には、ドーバー海峡や大 西洋の隔たりも含めその実感に大きな差があったかもしれない。そのほかにもまた以下のような不幸な外交関係が続いていたことも大きく作用したのではなかろうか。

1 乱脈を極めた当時の度量衡と暦の統一を求める気運は、国境を接する欧州各国間で強く醸成されつつあった。しかし「海の力」シーパワーを獲得し世界の覇権をめざすイギリスや、新大陸での国家建設で問題山積のアメリカには、欧州諸国に比しどこまで度量衡単位統一への切実な要求があったか、またフランスが実質的な協力と参加を熱意をもって両者へ事前に求めることができていたかは定かではない。 
2 長年にわたり民衆のあいだに定着してきた制度としての度量衡制度を改めるには、どこの国でも大きなきな社会的改革エネルギーが必要だが、この時、良くも悪くも革命という「特別な変革の機会」にフランスだけが遭遇していた。 
3 いっぽう当時、世界的にトップクラスの科学者をフランスが多数かかえており、論理的・学問的に説得力を持つ調査・実験結果を数多く独力で示せる実力を持っていた。このことが却って災いし、各国から独断専行との誤解を招いた。 
4 フランスの異色の外交政治家だったタレーランの提唱に始まったことから、各国に一種の政治的警戒感を持たれた上、フランス科学アカデミーのみが主導権を持ち、またフランス議会を通じて各国に共有される制度としての採用を働き掛けたという経過が、さらににフランスの一方的リードと警戒的に受けとめられた。

他方イギリス・アメリカが当時、国内に抱えていた政治的問題点としては  

1 イギリスは王室国家としてフランスのルイ王朝の末路を、まのあたりにしてフランス革命の伝播に強い危惧を抱き、またフランス革命の経緯そのものに対しても国内の賛否の対立と厳しい警戒の目で見られていた。また長い英仏戦争での勝利結果もあって世界経済戦略へのリーダーシップを確保しておきたいとの意志が強く働いていた。 
2 アメリカは南北間の独立への主導権争いなど建国の基盤固めのさなかでもあり、独立への欧州、とりわけフランス政府の政治的干渉を極度に警戒していた時期でもあって、なにごとにつけ一線を劃したい気運にあった。それだけに基本単位‘メートル’及び‘キログラム’の定義制定の経緯におけるフランス科学アカデミー独走への感情的反発が過度に利用された節もある。こうした流れが後にリップマンのいう「米国は欧州に対しては孤立主義、アジアに対しては膨張主義」を採る端緒にもつながっている。

 しかし曙は訪れるものでる。19世紀末に入るとメートル法の合理性は各国が認めるところとなり、1875年3月に開かれた事実上のメートル法第1回国際会議には次表の22カ国が 参加、もちろんアメリカ・イギリス両国の代表も出席しているし、アメリカはその年に、 イギリスも9年後の1884年にはメートル条約を批准している。このように両国ともこの時 点から現在まで、一貫して条約加盟国としての存在を続けてきているのである。

1875年3月「メートル法制定のための外交官会議」の参加国

ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ベルギー、ブラジル、アルゼンチン、 デンマーク、スペイン、アメリカ、フランス、イギリス、ギリシャ、イタリー 、オランダ、ペルー、ポルトガル、ロシア、スエーデン、ノルウエイ、スイス、 トルコ、ベネズエラ


 では他の世界各国の動向はどうだったのか。こうしたイギリス・アメリカの経緯とは別に世界各国は、その後あいついでメートル法の長所を確かめ、また国際間の度量衡単位の共通化を目指して、20世紀末までの約百年の間に多くの国が条約に加盟するところとなり、現在では加盟国が51(2001年9月現在)のほか、協力国(準加盟国)が6(2002年6月現在)を数えている。 
 さらにメートル条約加盟国が自国の度量衡単位としてメートル法を公式に採用し、その専用ないし強制使用を国の基本方針として法制化〜決定した年次を見てみよう。ただしこれは国内のメートル化を完全に達成できた年次を直接意味するものではない。

国内でメートル法専用を法制化した時期
 
 国   別
年 次
オランダ  
フランス  
ドイツ  
スペイン、ベルギー、オーストリー、スイス  
デンマーク、スウェーデン、ロシア  
ルーマニア  
イタリー、ノルウェイ  
日本
トルコ
インド
中国  

1821
1837
1861
1875
 〃
1881
1885
1921
1933
1955
1959

 

オランダは専用方針の採択はもっとも早かったが条約批准は1929年となった。

1875年5月20日メートル条約発効

 この表に見られるように、いわゆる先進国の多くは19世紀後半から20世紀前半までにメートル法専用の基本方針を決定している。しかし前記のオスマン・トルコの例で云えば最 初の法律制定が1869年であるから、ここまでに既に約60年以上、また日本の場合1874年に方針決定をしているので約50年を要したことになる。しかも実際に国民の間で切換に関する旧単位との換算法や新らしい計器類の取扱への周知徹底がなされ、新単位専用に習熟する迄には、さらにこの後30〜50年はかかっているのが実情である。またいずれの国においても、今日に比べれば国内のインフラをはじめ国防設備の水準も低く、かつそのシステム規模も極めて単純だったことは言うまでもない。ここでは先ずこのように当時と現在とでは基盤を支える社会資本に大きな経済的格差のあることを記憶に留めておいて頂きたい。

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プロローグ 「計る」に集まる視線 小説:子午線時代の欧州 メートル法がフランスだけで進められた理由
地政学的な視点 アメリカは島国か 欧州のみで発足した背景 米英両国の切換には
インフラの課題 達成国にみる助長条件 必要な政策的配慮 切換への燭光はある
エピローグ 参考文献 プロフィール

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