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日本計量新報の記事より 社説 2002/9-12

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  社説・日本経済再生のシナリオと計量器企業(02年12月15日号)

  平成デフレに陥っている日本の経済である。デフレ下では金利は低迷し、円は安くなり、経済規模は縮小し、雇用も縮小、働く人に元気がなくなる。

 銀行には金がない。バブル時代に貸し付けた金の多くがこげついて回収できない。回収できない金を帳簿に載せたままでいて、そのうち儲けが出たら帳消しにしようとしてもそれが無理な状態になっている。帳簿から落とそうとすると銀行は数字の上では経営困難が明らかになり、山一証券と同じように破綻する。ほとんどの銀行の機能が失われてしまうことになるが、こんな事態は史上初めてのことであり銀行がそろって潰れると、国家存亡の危機を招来するから政治の出番となる。

 バブルに踊らなかった日本人は少ない。当時買った株は値を戻さないし、不動産は売却しても借金だけが残る。バブルのつけは借金した企業にも個人にも残されているが、お金で人々を踊らせたはずの銀行が本当は一番の打撃を受けているはずなのに、反省が一番少ないのはその銀行である。 破綻状態にある銀行を生き残らせ金融機能を回復させるには、政府の思い切ったてこ入れしか道はないように思われる。それをしても日本の銀行は元の木阿弥であるような気がしてならないが仕方ないだろう。

 銀行の機能を回復させる手立てを講じること、モノ造りこそが日本が世界に対して優位に立てる分野であることが明らかなのだから、新しい価値を創り出すこのモノ造りを大事にすること、モノ造りの背景になる科学技術の振興に努め、技術立国を旗印にすることは当然である。また無理・無駄のない行政システムの構築がこれに付随する。

 暴走したときには鬱のような状態になりがちな資本主義経済体制のもとでは、これを適宜コントロールすることが求められるので、景気変動に対しての政府の対応能力の責任が問われる。需給ギャップの調整の簡便な方法は公共投資ということになっているが、従来型の公共投資は機能しなくなっている。従来型の公共投資は地方議員、国会議員の選出過程と連動して発生するものであるから、簡単には修正が効かないものであるがそれを正すことこそ政治家と政府の責任である。公共投資としての土木建設工事は重機の発達で人の雇用の面では効果が薄れているのに、これが繰り返される。

 日本経済の特質はモノ造り産業であり、技術立国こそ日本の生きる道であるのだからこのことを国民も地方公共団体も政府も大事にしなくてはならない。国民生活の一側面である消費の側に目を向けて、消費者利益を声高に唱えるのは悪いことではないが、国民のもう一つの側面は生産従事者でありサービス提供者でもあるのだから、この双方のバランスをとる地方自治体行政であらねばならない。同じことは政府にも言え、政治家にもいえる。

 翻って計量は産業のための基盤技術であり、その制度は社会基盤であることは確かだが、計量技術そのものがもっと自己主張してもなんら差し支えない。むしろ自己主張できる計量技術を開発し、新しい価値を生む製品に応用することこそ賞賛されることである。計量が基盤技術でありその社会システムが社会基盤であることは明白であっても、そのことで満足していられないのが事業者の実際である。

 トライ・アンド・エラーの繰り返しのなかからビジネスになる計量事業を創出することは賞賛される。元気に活動し、顧客に頼られ、愛される計量器企業は自らを誇りに思って良いだろう。

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   社説・日本社会を閉塞感を打破する方策(02年12月8日号)

   日本に住む人々に活気がない。これまでの生き方に待ったをかけられてしまい、今後どのような生き方をしたらよいのかを見いだせていないからである。日本と日本人が元気になるには明日の日本と日本人の生き方の理想が構想されればいいのである。日産自動車のカルロス・ゴーン社長が元気であるのは、将来の構想が明確であり、その構想に向かってまっしぐらに突き進んでいるからである。カルロス・ゴーン社長ほど物事を明確にしている日本の経営者は少ない。

 現代の日本が理想を失っているのは、経済社会の新局面に立ち向かうのにその方法と基本的な態度を確立していないからである。日本人は複雑な難しい事態に直面すると立ちすくむ癖を持っているというが、いまがまさにそれである。

 カルロス・ゴーン社長には行動に迷いがない。それは何故か。自社と自分の行動を律するプログラムがしっかりしているからである。日本社会と日本人はカルロス・ゴーン社長と同じように新時代に生きるプログラムをつくらなくてはならない。これができていないから不安な生き方を強いられ、右往左往することになる。

 プログラムという言葉はコンピュータの世界でよく使われる。プログラムとはコンピュータを動かすための指令であり、各種のプログラムを総称してソフトウエアという。コンピュータは、そろばん(論理演算装置)、こくばん(記憶装置)、情報をこまかに書き込むノートブック(ストレッジー貯蔵装置)を備えたシステムである。これらの道具立てはハードウエアと呼ばれる。

 迷いに満ちた日本と日本人に求められているのは、主に自己の行動を律するソフトウエアの書き換えあるいは再構築である。人の教育にはソフトウエアを育てることとハードウエアを充実させることの二面がある。日本人がこれまでやってきた教育の多くは、知識を詰め込むノートブックの拡充、数式を解いたり暗算の能力を高めるそろばん機能の充実など、主にハードウエアに重きがおかれた。

 教育に際して自分たちの基本的な価値観をこくばんに書き込むことは、日本文化を末代に伝えるために必要なことではある。子供たちのハードウエアを充実させ、プログラムを書いてやるだけの教育では不十分であり、プログラムを自分で書く能力を育ててやらなくてはならない。これまでの日本の経済社会は、欧米の先進技術を模倣し一定の品質の製品をマスプロダクションするために、それに見合う均質の労働力の提供を求め、教育は実質上そのことを追求してきた。模倣から創造へ、これまでにない新しい価値を生みだして行くためには、従来の教育では不足であり、創造性を高める教育が求められる。

 創造性の発揮とは、自分のプログラムを自分で書く能力と連動し、それは個性を育てることでもある。自分でプログラムを書く能力を高め、かつそのプログラムをもっとも能率よく働かせるハードウエアを備えた人間こそが新時代が求める理想の人間像である。

 そのような人間教育の仕組みを社会が用意することが大事である一方、教育は自分自身にするものでもある。人間の側に好奇心さえあれば、知ろうと思って知ることができないことは現代の社会にはほとんどない。知ることができることと記憶力とは別のもので、とんでもない記憶力を発揮する人間がいる。記憶装置としてのコンピュータが発達する以前には、記憶能力にすぐれた人間はそれ自体で価値をもっていたが、現代ではむしろ発想力の価値が高まっている。

 和歌山県に生まれた博物学者南方熊楠の、その頭脳と行動力によって、近代日本の黎明期である明治時代、大正、昭和の初期の時代にあって、幅の広い業績の数々を残した。柳田国男は南方熊楠を「日本人の可能性の極限」と評したが、南方熊楠の記憶力は天才的であった。博覧強記とは南方熊楠のために用意された言葉と思われるほどである。南方熊楠は知識習得に学校も利用したが、その多くは図書館の書物であった。また自然観察は南方熊楠の特技で、普通の人には見えない事象を見ることができた。南方熊楠の学習の基本は独学である。これまで拓かれてこなかった分野に挑むには、それまでに分かったことを踏まえて新しい角度で物事を見て行かなくてはならない。粘菌や民俗学の研究で業績を残した南方熊楠こそは新しい日本の人文物像の理想の一人である。

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  社説 ・計量の技術的側面と社会制度の理解(02年12月1日号)

  社会基盤という言葉が計量計測の世界に対してよく使われるようになり、そのような認識が広がっている。社会基盤である計量計測とはどのような部分を指すのか必ずしも明確にされない恨みがあるので、改めて触れておきたい。計量計測の世界は技術的要素と社会制度としての要素の2面に分解できる。計量計測を簡単に計量と言ってしまうが、計量はそもそも技術としての側面から発達したもので、技術としての計量は自然事象を解く手がかりとなり、計量技術の発達は文明を生み出すことにつながった。

 計量技術を大がかりに作用させようとすると、それを使うための約束事が必要になる。計量技術が未熟で人間社会で大きな広がりをみせていない段階では、自然発生的な人と人の私的な約束事、地域社会の約束事を取り決めることで用が足りた。計量技術の発達、諸々の技術の発達に連れて都市が形成され国家と文明が成立するようになると、刑罰などとともに計量に関しても社会的な取り決めがされるようになった。これら社会制度は国家と政治の権力を掌握した者が、社会経済体制の継続のために定める形式をとることが多かった。こちらは計量の社会制度としての側面であり、度量衡単位の統一もそれに含まれる。社会基盤としての計量がいわれるのはこのことを指してのことである。

 技術としての計量はすべての技術の基盤になっているように見える。原始的な計量は数を数えることに始まり、一つの単位との比較によってモノの大小を区別し、またその倍数によって計量も行った。こうした計量は細密かつ複合的に行われるなどして発達をつづけて、人類はニュートリノのような超極微細物質の認識から光年の再延長の世界である宇宙の大きさをも計り、かつ認識できるようになった。

 ノーベル物理学賞の小柴昌俊博士は、超新星からのニュートリノを史上初めて観測に成功。観測施設スーパーカミオカンデによりニュートリノの観測の結果、ニュートリノに質量があることも判明した。ニュートリノの性質の理解により、重力崩壊による超新星爆発のメカニズムと星の進化の理論に裏付けがあたえられた。

 ノーベル化学賞の田中耕一博士の功績は生体高分子の質量分析法のための「脱離イオン化法」の開発に関する功績であった。MALDI法(マトリックス支援レーザ脱離イオン化法 )と呼ばれるこの手法を用いることによって、タンパク質をはじめとするさまざまな巨大分子にレーザー光線をあててイオンにすることにより、その質量の測定することができる。この研究成果は医薬開発の評価に有効であり、人類の健康と福祉増進に今後一層直接的に役立つものと期待されている。

 以上のような科学技術を計量技術と計量の社会システムととしての計量制度が支えていることは事実であり、この二つの要素をもつ計量が無ければ実現困難なことでもある。しかし、だからといって計量がすべてのもととすると言い過ぎである。文明社会に科学技術はつきものであり、ここにはよりよき計量の技術と計量制度が社会がついて回るといった程度で表現は十分であろう。

 微細技術と高度技術を象徴的に「ナノテクノ」と表現している。計れない微細分野の加工技術への挑戦がつづいているが、これは計ることとの相互作用による挑戦でもある。計ることができればそれを情報化でき、特別な専門技術を一般的な技術に変換し、産業社会が手軽に使えるようにすることができる。計る技術すなわち計量のもつ働きに驚く。

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■ 社説・ウェブサイト「計量計測データバンク」の内容(02年11月24日号)

  現代はデジタル情報通信革命が進行している時代である。「計量計測情報」というコンテンツをインターネットの世界で扱うのがデジタル情報通信革命と連動した日本計量新報社の情報商品『計量計測データバンク』であり、この世界で絶対的な情報の集積を実現しており利用性が非常に高い。

 ソフトバンクの孫正義氏は現代をデジタル情報通信革命と規定しており、同氏はこのインフラ部門(情報の道路と考えればよい)の覇者になることをうたいあげている。情報インフラ部門は孫正義氏らの事業(仕事)の分野である。孫氏の仕事は複雑にみえるけれどやっていることは単純にはそういうことである。

 われわれ日本計量新報社が担う事業(仕事)の分野はコンテンツ(情報そのもの、情報内容)である。どのようなコンテンツであるかといえば「計量計測情報」であり、この集積庫を『計量計測データバンク』(有料)という商品にして販売している。計量計測情報は『日本計量新報(有料)』に最大限利用され、ニュース報道される。

 日本計量新報社では『日刊日本計量新報』(デイリー日本計量新報=無料)をインターネット上に開設して、新聞購読者ならびにデータバンク契約者に対して日単位あるいは即時性のある便益性の高い速報ニュースを提供している。計量計測の仕事に従事する人々に対して、毎日毎日新しい関連のニュースおよび資料等を提供して業務に役立ててもらおうというものである。技術者その他の方々の業務遂行にパソコンはついてまわり、朝一番の仕事は電子メールのチェック、社内イントラネットによる業務内容のチェックということになっているので、このついでに『日刊日本計量新報』(デイリー日本計量新報=無料)を閲覧いてだいて発想力を大いに刺激しようというものである。また慶弔など週刊の新聞で補いきれない緊急事項もここに掲載するので利用性は高い。

 さて『計量計測データバンク』は計量計測情報に関するコンテンツとしては最大、そして絶対的な存在であるがその度合いを飛躍的に高める計画を実行中である。この『計量計測データバンク』を別な言葉で表現しよう。『計量計測データバンク』は日本でも世界でも最大の計量計測情報コンテンツをもつウェブ・サイトである。直接的に蓄積された情報量においても圧倒的であり、このデータバンクをプラットホームにした、キーステーションにした計量計測情報の蓄積量においても同じである。『計量計測データバンク』を運営する日本計量新報社は、計量計測情報紙である『日本計量新報』を発行、また計量計測関連の図書等を発刊してきた専門企業である。日本計量新報社が蓄積してきた計量計測情報に関する知識の総量は関係した情報を扱うノウハウでも圧倒的強者であり、その情報に寄せられる信頼性も圧倒的である。したがって、日本計量新報社が運営する計量計測情報コンテンツの集積庫である『計量計測データバンク』は、現在でも世界一の関連部門のウェブ・サイトであるが、今後とも圧倒的存在として、パワーを全面的に発揮して大増進し、独自のウェブ・サイトを形成する。現在は、日本語だけのコンテンツ(情報内容の蓄積と発信)であるが、コンピュータ技術の発達は日本語の自動英訳その他を実現するから、遠からず全世界言語によるウェブ・サイトになる。

 『計量計測データバンク』の内容(データ項目)は次のとおり。
@計量関係法令に関するニュースや解説を含めた情報の集積
A計量計測機器産業に関連する生産動向、産業統計、指標等を含めた情報の集積
B計量計測関係技術、ならびに関連する知識等の情報の集積
C計量器を用い、計測技術を活用して生産ならびに流通等の一般事業所(企業)が必要とするSI採用の実際面を含むあらゆる計測情報の集積
D計量関係団体、学会、公的機関等に関する情報の集積
E計量管理技術、品質工学等に関する技術情報の集積
F計量士の実務に関係する情報の集積
GトレーサビリティとJCSS認定事業者に関する情報の集積
H計量計測関係専門図書に関する情報の集積
I計量計測に関する国際的動向等に関する情報の集積
J計量計測機器選択と購入のためのガイドならびに関連する情報の集積
K計量計測関係事業者、関係機関等の住所録を含む関係情報の集積
LISO9000シリーズ、QS9000シリーズ、ISO14000シリーズ関連の情報の集積
M都道府県ごとの指定定期検査機関に指定された団体とその定期検査事業
N『計量計測機器総合カタログ』の全データの搭載
O『はかりカタログ』の全データの搭載
Pその他、関連する情報の集積

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■ 社説・世界2位経済の日本ビジネス環境の理解(02年11月17日号)

   世界経済の様子は大きく見ると第2次産業型か第3次産業型へと移行中である。移行はアメリカから始まり、順次広まっている。従来型商品を製造する第2次産業は製造コストを求めて中国など東アジアに拠点を移し、中国そのものは第2次産業と同時に第3次産業同時進展の波に洗われているものの、第2次産業の振興によって経済規模を急速に拡大中である。

 日本の産業の新しい波はコンピュータ社会の到来と共に急速に広がっている。第2次産業の社会は物作り社会であり、日本の社会の物作りは、この先長い期間つづくことになるものの、その形態は変わる。日本の資本と日本の技術で中国の労働コストで製造される製品に対抗する国内産業の手段は何か。日本の企業が中国など東アジアで製造した商品と、国内に残った製造企業が渡り合うことは困難だから、中国では製造できない製品に特化していくか、中国よりも安いコストを実現する製造方法を用いることが求められる。

 産業社会は今日に限らずいつでも競争を強いられてきた。しかし今の状態は旧来に増して困難性が大きい。それはローテク分野に強く現れ、ハイテク分野であってもうかうかしていられない。

 日本の工場の中では技術が変化し、生産に占める知識の割合が高まっている。生産が技術から脱却して知識に移行していることが、日本の工場を中国に移転することを可能にした。日本人は第2次産業型の産業社会が発展する過程で富を得た。この成功に安住する間もなく次の産業の波にうまく乗るための努力を強く求められるようになった。

 産業が新しい状況に移行しているのに対して社会機構が追いついていかない。政治も社会組織も学校制度も家庭制度もそうである。大学教育では需要の薄れた学部学科の定員削減と需要が見込まれるのに増員の動きが鈍いのには、日本社会の変化への追随性の悪さを物語る。失われた職業のための教育を漫然とつづけている日本の大学は最低の状態にある。また娯楽化した新聞、テレビ等のマスコミはできあがった古い観念に載って報道する性質をもっているから、経済と社会の変化を伝えきれない。新聞、テレビの報道だけに接していると時代の変化に気付きにくい。成功した人々は多くの場合、現状の継続を望む保守主義になって、変化を望まないからである。世の中が変わっていてもそのことを見ないようにするのである。フランスのルイ王朝がその典型であったが、日本人は同じ心理にあったようだ。英国人は大英帝国の繁栄をいつまでも昔はよかったと語りつづけたが、日本人も昔はよかったといいあっている。

 大学教育の学部学科のニーズへの対応の鈍さを指摘したが、今後到来する高度に知識化した経済社会を生き抜く人の教育こそ日本政府の最重要課題である。日本人の少子化と人口減少が経済に悪く作用すると予測する説がある。少子化で人口が減るのであれば、日本人の生産力をその分上げればいい。大学進学に向けての切り捨て教育を変換して、日本人の多くが真に高度な学術知識を習得できるように、教育の底上げ政策を実施すればいい。また日本人の人種的な均質性は文化的な均質性となって現れ、これが第2次産業型の産業構造にうまく適合した。今後は文化的均質性は必ずしも産業と経済にプラスに作用しない。人間は一人ひとりをよく見るとそれぞれに優れた個性的能力を持っているのだから、均質性を求める余りこれを押さえてしまう弊は戒めなくてはならない。日本の小中高校と大学教育の欠陥が明白なのだからこれを改めることである。

 同じようなことで日本の企業も産業界も世界の中で日本人の知識と技術の能力を存分に発揮できるよう、新しく起きている大きな波をしっかりと見つめ、この波に乗れるよう自己鍛錬しなければならない。隣国、中国の動きに狼狽えているばかりで動きがとれない者は負けていくしかない。

 計量計測機器に関していえば、使用者の要求は均一ではないことが多いのだから、個別要求にうまく適合できる機能を備えた内容のものに変換していくことである。基本的には一つの設計で内蔵のコンピュータでそれに対応すること。注文生産に応じられる生産体制を築くことなどである。日本の使用者ニーズと社会ニーズに対応するのには日本でそれと接することが有利なのであるから、この有利性を最大限に発揮すべきである。

 GDP世界第2位の経済大国日本の市場は、その気になれば誠に素晴らしい環境を日本のビジネス社会に提供しているのである。

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■社説・計量のトレーサビリティと校正ビジネス(02年11月10日号)

    計量器には製造・出荷後に性能が劣化しないものと、時間の経過につれて大きく変動するものとがある。金属製の直尺などのうち精密な計測に用いられないものは、買ったら壊れるまで気兼ねなしに使うことができる。器差がかなりの程度で変動する計量器の場合は、器差の変動状態を定期的に確認したり、所定の器差に調整する必要のあるものもある。


 計量器の性能の変動をもとの状態に戻したり、変動の状態を確認する作業を校正といい、このための作業がビジネスとして成立している。計量士によるはかりの定期検査は法定の検査の一つではあるが、仕事の性質を技術的視点でみると校正作業にからむこれも校正ビジネスになる。


 計量器は精密さの度合いは様々でも、所定の性能がありその状態をある範囲で維持していることが求められる。精密さの度合いの上位のものは標準器としての性質をもち、ここから以下につづく計量器の精密さが実質的に規定され、定められていくことになる。したがって精密さの度合いの上位の計測器あるいは計測標準器の校正作業は大事である。


 国あるいは国際的な計測量の標準器と各使用段階の計測器の精密さの度合いのつながりの整合を計測のトレーサビリティという。トレーサビリティが確立していない計測は、世界と連動せず、そこでの計測結果は世界が認めることはないあくまでも私的なものになってしまう。計測のトレーサビリティは品質保証の国際規格であるISO9000シリーズでは絶対的な要求事項であり、これを満足しない限り、その計測は認証されない。


 日本の計量の国家標準は国際標準とある約束ごとのもとに整合をとって繋がっている。こうした日本の計量標準との繋がりを公的に証明する制度が計量法の規定にしたがって制度化されている「計量法トレーサビリティ制度」であり、JCSS制度とも呼ばれている。


 現在のJCSS制度の不完全性は、産業界その他が求める計測標準を必ずしも満足するほどにカバーしていないということであり、同制度にしたがった校正料金が需要者側の満足する度合いより高いということである。JCSS制度利用の校正料金が高い理由の一つは、認定を受けようとすると実際には機器と設備の投資が求められ、さらに認定を受けるまでに多くの人件費を要することである。こうして認定を受けても校正需要が投資を賄うのには及ばないという事情がある。実質的に同様・同程度の計量標準器の校正が、それまで計量行政機関が実施していた基準器検査の手数料の何倍にもなるという事実が、JSCC制度への校正依頼を少なくする要因となり、この校正ビジネスを難しいものにしている。


 JCSS制度は、この認定を受けるために努力し認定後関連のビジネスで売り上げを伸ばしている企業と、設備費用その他の事情から認定を受けないまま従来あった校正需要が断ち切られている企業との間に格差を生じている。企業努力の結果といえば聞こえはいいが、そう簡単に言い切れないのが日本の計量標準供給の実情である。


 計測の結果は国際的な整合を保持しなくてはならないが、そのためには計量標準と計量器の精密さが国内標準にある手続きのもとに整合性がとれていなくてはならない。産業界への計測標準の供給はJCSS制度にもとづくもの、同制度が整備されていない分野での製造企業その他の技術的手続きを踏んだもの、その他がある。計量法の基準器検査制度にもとづく検査は計量の公的機関、製造事業所、計量士などに限定されたため、このルートからの産業界への計測標準の供給は標準器の技術的な内容を備えているとしても、法的な意味では根拠を持たない。


 日本の産業計測標準とその供給、正しくは計測標準のトレーサビリティの在り方は広い視点にたって存分に議論され、検討されたうえで方策が定められるべきであろう。そして計量トレーサビリティに関するビジネスは重要な計量ビジネスの一つである。

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■社説・ホームページがないと生き残れない(02年11月3日号)

   現代の生産技術は、音楽ソフトを伝達する1枚のCDに載せられる時代になった。CDに載せなくても日本にあるコンピュータから東アジアの国々の生産工場の設備に時間と空間を超越して送り込める。東アジアにある生産状況、設備の稼働状況を日本にいながらも常時把握することができる。

 コンピュータの能力が向上し広く普及した状況下では、これを利用できる者と利用できない者との間に情報格差を生み出す。人類は通信手段と交通手段を発達させるにしたがって、情報伝達の時間を短縮させてきた。コンピュータは情報伝達と知識活用に革命を引き起こしている。

 中国を含む東アジア諸国の物作り産業が急速に発達しているのは、情報革命に起因するものである。1950年代であれば、手仕事を不可欠としたためこうした技術者を養成するのに時間を要したのである。情報革命は手仕事の技術熟達者をパック商品のようになった生産技術のマニュアルによって短期間に作り出せるし機械がこれを補う。手に負う分野を縮小して、熟達技術を省いて、性能の確かな製品を作れるようになった。

 こうした情報革命の波に乗れる者と情報革命の進行から阻害されている者の間に情報格差が生まれる。情報格差は情報取得能力の差から生まれるのであるが、自ら進んで情報取得手段を放棄しようとする者がいる。これでは人生と自分のビジネス、仕事を投げているようなものである。

 そうならないためにどうするか。答えは簡単である。

 一つはパソコンを入手することである。自分が使える会社のパソコンでもいい。自分でお金を出してパソコンを会社に置いてもいい。できれば自宅にも1台のパソコンを置きたい。そしてそのパソコンを使えるようになることである。文書を作ること、電子メールの文書を読むこと、電子メールを送ることは最低条件になる。

 一つはインターネットにつなげることである。電子メールもインターネットを利用しているのだが、世の中のウエブサイト、つまり誰彼のホームページを見ることができるようにこの方面の技術を磨くことである。都市部であればインターネットの常時接続、電子メール使い放題で通信料は5000円以下である。普通の人間が欲しい知識と技術情報はすでにインターネットの世界に構築されている。これは利用の仕方次第であり、利用力のある人とない人ではその格差が大きい。つまらぬこと、しかし真実の一つを申し述べると、歳を食った人ほど情報には疎い。自分の古い世界を構築しているがために、世間に目を向けない、人の話を聞かないことになって、世の中から置いて行かれる。

 一つは自分のホームページを持つことである。企業であればこれは絶対条件である。自己のウエブサイト、つまりホームページはビジネス社会における自己の存在証明である。どんな企業でも顧客に対して自己証明する会社概要あるいは会社案内があるように、同じものをインターネットの世界に届け出ていなくてはならない。自己のホームページを持てない企業はビジネス社会から落後しているようなものだから、一踏ん張りしてせめて会社概要程度のものを作って欲しい。社名と住所と取り扱い商品だけなら、東京都計量協会会員であれば、同会のホームページの会員一覧に載っているので、これが代用となっている。

 ビジネスをしている者であればホームページ制作費に仮に15万円費やしても顧客からの注文でまかなってお釣りが出る。発達したインターネットの世界はホームページにそれだけの力を持たせるようになった。

 かつては読み、書き、ソロバンといって学校で教えたが、パソコンを使おうとした場合、社会教育でパソコンの使い方を教えているものの、これで覚えられる人は少ない。したがって事務所の知っている者に習うしかない。これが一番である。

 ホームページを自分で作ろうとすると、まず無理である。知らない者がマニュアル本を片手に作業をしても時間ばかりかかって最後には断念するのが落ちである。これも知っている者に頼むこと。自分の仕事を知っている熟達者に頼むことである。パソコンの社会はいろいろ考えても一筋縄ではいかない。聞くことは恥ではなく、学ばないことが恥であり、ホームページを持つことは企業の社会に対する責任の一つである。

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■社説・良い商品をパッと作る品質工学(02年10月27日号)

 日本の計量に関係する言葉である「はかる」を少し突っ込んで考えてみよう。日本語の「はかる」という言葉は、現代語では計量あるいは計測の意味である。「はかる」という言葉にはいろいろな漢字を当てることができる。「計る」「量る」「測る」「図る」「謀る」などである。「はかる」あるいは「はかり」という言葉が含んでいる意味は広い。

 その「はかる」の語源である。日本語の「はかる」とは、「はか(量)」を動詞化したものというのが通説である。アイヌ語では同じような意味をもつ言葉として「パカリ」がある。計る、量る、考えるという意味である。

 「パカリ」(pakari)は、「パク」(paku)と「アリ」(ari)に分解できる。「パク」は「計る」の意。「アリ」はan(アン)とi(イ)に分解でき、アンは在るまたは有るの意で、イは他動詞化する母音語素で、anとiで「在らしめる」の意味になって、ani(アニ)は持つという意味である。従って「パカル」は、「在る量まで持つ」ということであり、「計る」の意味になる。

 物事は数量化することによってよく分かる。事象を数量にして表現するときにそこに計量が絡んでくる。計量なくして物事を数量として表現することができない。人は計ることによって事象の内容を理解するようになった。ナイル川の氾濫には法則性があり、その法則性を様々な事象を計ることによって理解することができた。

 現代でも計ることは物事を理解する基本である。「抽象的な表現をすれば、すべて物質は、計量によってはじめて価値を生ずるといえよう。その意味で、計量こそは、すべての学問の基礎でなくてはならない」と述べたのは歴史学者の宝月圭吾氏であった。

 現代の物作りの社会で計量はその基礎となっている。基礎の一つとしての計量は、計ることの基準を定めて、世界的に共通な物象の状態の量を示す計量単位を制定していることである。もう一つは、計量を様々な方面に利用できるようにその技術を発達させていることである。こちらは産業と文化の基礎であると同時に、計量技術そのものが応用すべき生産技術としての性質をもっている。

 世界の先端産業、先端技術はより優れた計量技術と連携しており、日本の製造技術は計量技術と深く結びついていた。高度な作業をする製造設備は、精密で確実な動作を保証するために計量技術を背景にしなければならず、それは計量管理とも呼ばれている。

 計量管理は物作りと深く連動するものであるが、品質管理概念をさらに発展させ、品質工学が登場してきた。品質工学の草分けは田口玄一氏で、日本にこの概念を普及させ産業界で実施に移させているパートナーが矢野宏氏である。品質工学を定義したり、定義に基づいて解説すると難しくなるので簡単に述べると、「計らないで計ったと同じ作用をもたらすことによって、物作りをすること」である。

 計ることそれ自体は目的を持てば産業レベルの技術としては何とか達成できる。物作りに関して、計ろうとすれば、計る対象となるものが無限にあるように錯覚し、それをすべて計ってしまいたくなるのであるが、押さえる対象を選択して、必要最低限の計測をすることで物作りの目的を達成しようというものである。品質工学の考え方の基礎になる諸事項を矢野宏氏が本紙連載の品質工学入門講座『計測技術から品質工学へ』で、間接的に触れているので読みとって欲しい。

 生真面目すぎる日本人はその性格を活かして、故障しない、性能のいい自動車、家電その他を製造し、世界に向けて供給してきた。こうした産業はいまにつづいているものの、新しい商品をつくる新しい産業を次から次へ興さなくてはならない。新しい産業で利用すべき生産技術の一つは、計測の神の手ともいえる品質工学である。生真面目だけではない、発想力豊かな技術で、新しい商品を開発し、それを魔法の手で簡便に作ってしまわなくてはならない。

 情報化社会における物作り分野は、情報と深い縁を結ばなくてはならない。品質工学は物作りの基礎情報であるから、計測に携わる技術者、あるいはやむなく計測に関係しなくてはならない技術者は、品質工学に通じて、この原理を応用しなくてはならない。新しく考えられた商品を鋳型にはめたようにパッと作って見せるのが品質工学である。この手法の開拓によって田口玄一氏はアメリカの自動車産業界の殿堂入りをしたのである。

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■社説・デジタル計量情報をいかに活用するか(02年10月20日号)

 いま日本で起きている現象のうち生活関連で目につくのは、銀行の店舗が減りコンビニエンスストアのキャッシュディスペンサーが銀行の窓口業務を代行していることなどである。

 なぜこのような現象が起こるのかといえばその背景にコンピュータを核としたデジタル情報革命が進行しているからである。社会はデジタル情報革命を通じて情報化社会に移行中である。移行中の社会にあって人間はその実態を正しく把握しにくく、それが落ち着いてから「ああそうだったのか」と理解するのである。したがって多くの人々は今なにが起きているのか分からず、五里霧中の状態にある。

 情報化社会において発生する問題の一つは、情報を持てる者と、持てない者の情報格差が生じることであり、この情報格差が様々な作用をもたらす。ビジネス社会でいえば成功する人・企業と、失敗する人・企業とになって現れる。

 計量計測の世界もこのデジタル情報革命と情報化社会の波にもまれている。計量して得られる数値はそれ自体が情報であり、デジタル情報として得られたこの数値の利用の方法が模索される。ある物象の状態の量を計ること、計ることで得られた数値とある関係をもつ別の物理現象あるいは化学現象などとを利用して、それまで判定あるいは測定が難しかった別の現象を求めることができる。

 人間の身体の導電率から身体の中に存在する脂肪の割合を求める機械は商業的に見事な成果を納めた。値を電子的なデジタル数値として取り出すものではないが、ガラス管に鉛を詰めた構造の浮秤(ふひょう)によって液体の密度や比重が求められる。電子式のはかり(天秤)を用いて、同じ原理により密度と比重を求める機械が市場にある。

 計量情報がデジタル数値として取り出せることを利用して、次に何をやるかがデジタル情報革命時代および情報化社会における計量計測機器の発展方向である。これまで計れなかった分野に計量の道をいかに拓いていくかということ。社会に潜在的にあるニーズを探り、そこに向けた計量計測機器を開発する知恵や知識や技術とその実行力が計量計測機器メーカーに求められる。

 商品開発とは難しいものでアイデアとして素晴らしく多くの人が欲しいと思う物でも高ければ売れないし、実用的でないと実需がつづかない。新商品開発には多様な方法があると思われるが、顧客の現場の要求から出てくるものが商業的に成功するために一番確実であるもののようだ。

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社説・計量技術者は儲けの要にいる(02年10月13日号)

 日本で生産・出荷される計量計測機器は横ばい傾向にある。中国ほか東アジアで生産される計量計測機器は急激に増加している。中国その他の東アジアの国々に工場を建設して計量計測機器を製造する日本企業と欧米企業が増えている。中国では地元資本で創業する企業もあるが、海外資本と海外の技術を導入して創業する計量計測機器工業が多く、日本からは実質上日本資本100%出資による工場建設の事例も増えている。

 技術は情報としての形態をとるようになっており、情報の取り扱いがしやすくなっているコンピュータ社会の今日では、技術の移転は旧来に比してはるかにやりやすい。技術移転に要する時間もはるかに短縮された。日本で一般化した技術によって中国で物作りをすることが急激に進行している。人、技術、設備を中国で確保することができれば、日本と同等の商品を製造することができる。日本の資本によって中国での物作りが盛んになっており、この勢いは今後も長くつづく。

 日本の技術・資本によって中国はじめ東アジアで製造された計量計測機器は、製造された国の国内で出荷されるほか海外にも輸出される。日本に輸出され、欧米に輸出され、世界に輸出される。日本に輸出された計量計測機器は、日本国内で生産され国内に出荷されたものと合計されて、日本国内への流通総量となる。日本国内の計量計測機器の年間の新品の販売数量は、国内製造品の国内出荷数量と、輸入数量の和である。中国はじめ東アジア諸国の計量計測機器産業の振興にともなって、国内での販売数量に占める国内生産品と輸入品との比率は変動している。

 低価商品は遠からず国内品は東アジアからの輸入品に置き換えられるだろう。この場合、輸入品の多くは日本資本と日本の技術によって製造されることが予想される。

 日本の計量計測機器に関する商売上の売り上げは、製品の販売だけではない。売りっきり、使いっきりの商品もあるが、そうでない商品もある。整備していなくては機能を発揮しない計量計測機器は多い。定期的に手を掛けることが求められる商品があり、計量計測機器はこの種の商品が多い。

 整備は製造事業者自らが実施するものと、製造事業者と連携のもとに整備専業の者が実施するものなどがあり、その実体は多様である。整備に要する費用がトータルでは、商品を購入する費用を上回ることも多い。整備に関係した事業をメンテナンスビジネスともいい、この分野における売り上げ金額は大きい。日本の全国各地に地場の計量計測機器事業者が存立するのは、こうした要素があってのことである。

 日本の計量計測機器ビジネスは、国内製造品の総量、輸入品の総量、メンテナンス費用、販売にかかる費用などの総量の和であるといっていい。検査・校正のビジネスもあるが、これはメンテナンス費用の中に含めて考えていいであろう。

 計量器ビジネスに成功するための一つは、他で真似できないものを作ることである。安さで負けない商品づくりはもはや中国はじめ東アジアの国々に移ったように見える。他社が真似できない商品を高く売ることに日本の計量計測機器技術の神髄を見いだそうとする企業もある。ユーザーの求めは様々であり、商品製造費用の削減や商品の品質の向上に寄与するのであれば、どんなに高額な計量計測機器でもゆくゆくは導入される。

 物作りなどに関して計量を考えると、計量計測機器に要する費用は少ないに越したことはない。計ることをしないで上手くものが作れることが望ましい。計量に関する見えざる神の手、見えざる天才の手というものがあり、神の手、天才の手を計測設計に導入したいという願望がある。計らずにいいものを作ることを理想とし、この理想を実現しようとする学問とその実際行動がある。計ることばかりに労力を費やして、実際には上手くものが作れないというのは本末転倒である。必要なだけ計ればいいことであり、どこまで計るようにするかは計量(人によっては計測)の設計にかかる事案である。

 そのような理想をもっていないと計量の設計、計測設計、計量計画は上手くいかない。しかし、多くの場合には計ることをうまく設計しなかったために、いい商品を製造できないことの方が多い。計量に通じて計量を手なずけた企業が業績を上げ、そのことを企業で実施する計量技術者は儲けの要にいることになる。

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社説・毎日発行のデイリー日本計量新報(無料)利用のすすめ(02年10月6日号)

 役所にいるときは計量行政に関する情報はそこそこ伝わってきたが、退職後はまったく事情が伝わってこなくなった。『日本計量新報』によって計量行政の実情を理解できると弁じたのは、行政機関退職したのち、計量協会の事務局の仕事を長く勤めた人である。計量の世界全体にしても同じである。計量の世界がどのように動き、企業と個人と商品と行政がどのように動いているのか、そのすべてを報じようというのが私たちの姿勢である。在る姿をそのままに、素直に報じることが、計量の世界の動きを正しく報じることになるのだと考えている。

 心やましき者はその心を隠す。やましき心があるとそれを外に開かない。やましき心根の集まりはその組織の様子を外に見せない。計量の世界にもこのような事例がないわけではない。

 情報公開を原則とする役所ではあっても、正々堂々と思うところ、考えるところ、やっていることを公開する潔い担当者は少ない。計量行政にどうして世間に隠すことがあるのか不思議でならないが、法令に不備があったり、これまでやってきたことに不都合があると隠しておきたくなるのであろう。

 これの度が過ぎると、あやまちが更にあやまちを呼んで大きな災いを引き起こす種になる。嘘をついて嘘の帳尻あわせをしていると必ずボロが出るのと同じである。日ごろの取材活動を通じての感想の第一は以上のことである。

 情報というと新聞とテレビとラジオと雑誌が思い浮かぶ。一般の生活と政治経済情報は、大手新聞社とテレビ・ラジオ局ならびに雑誌社が扱う。一般新聞にしても1日に紙面に文字と写真を埋めて扱える量には限度があり、その紙面すべてを購読者が読むわけではない。時間の制約もあるからテレビ・ラジオとも扱える情報量はそれほど多くはない。

 生産活動を含めて人間の諸活動は様々であり、一般の新聞とテレビ・ラジオ、雑誌が提供する情報では不足する。『日本計量新報』のような専門新聞は部外者にはその内容を理解しがたいものであるが、必要性が厳然と存在するニーズに立脚した存在である。

 『日本計量新報』は週刊のタブロイド8ページだての計量計測専門新聞であり、主として計量計測の現場技術者、計量計測機器販売事業者、計量計測機器製造事業者、計量行政機関職員などに読まれている。

 情報通信の手段は、紙に印刷された文字情報とあわせて、インターネットに代表される電子情報によって共用されるようになった。本紙ではニュースペーパーの『日本計量新報』(有料)とあわせて、インターネット情報通信による計量計測専門のニュースとデータベースを提供する『計量計測データバンク』(有料)を商品として販売している。

 これは週単位での情報提供であるので、間隔を縮めて日単位、時間単位(ニュースの即時報道)にする方策を講じた。それが『計量計測データバンク』(有料)を土台にして日単位、時間単位(ニュースの即時報道)でニュースと資料を提供する『日刊日本計量新報』(デイリー日本計量新報)である。

 こちらは無料であり、毎日新しい計量情報に接したい人々の需要に答えている。 『日刊日本計量新報』(デイリー日本計量新報=無料)を試験的に開設し、運営したところアクセス数は多大であり、計量計測技術とその関連情報が産業界その他から基礎的に求められているものであることが確認された。これが計量計測に関係する人々の思考を毎日刺激し、仕事に役立つことは間違いない。

 『日本計量新報』と『計量計測データバンク』は、計量計測専門の情報の絶大な累積量を誇る日本でも世界最大の計量計測専門情報提供の商品であり、計量計測に関係した調べもの、その他の仕事も『日本計量新報』と『計量計測データバンク』を第一次の踏み台にして始めると上手くいく。アドレスは次のとおり。

 「計量計測データバンク」は、検索エンジン(googleなど)で「計量計測データバンク」で検索すればすぐに開ける。

 「計量計測データバンク」のURL=http://www.keiryou-keisoku.co.jp/

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社説・わが国の計量文化を育む(02年9月29日号)

 計量関係団体のブロック会議と称される地区別の会議が開かれている。

 計量協会関係の会議、計量士の会議などである。100名規模から300名規模の専門の会議となる。計量士の会議の場合には計量士業務に係わり、計量法令と実際業務との矛盾点などが取り上げられ、その解決の方向を模索することになる。計量協会関係の会議でも同様の案件が提出される。

 泊まりがけで開かれるこのような大規模の会議にしては、提案された案件の解決が遅滞することが多い。その原因は、提案議題が現実と適合しておらず無理があること、議案の中に解決の方向が明示されていないこと、問題解決への真の意欲は持たずただ漫然と議題が提出されていること、などにあるように思われる。

 真に解決を求めるならば、その方向性をある程度明示した建議書の様式をとるぐらいの心意気がなければならない。計量法令を目的に向かって諸行政機関その他と連携して実際に機能させるには、実際的な場面との有機的な結びつきが円滑になされなければならない。

 ブロック会議に提案される計量法令がらみの議案は、ただ何となく提案されたのでは会議そのものの意義を低下させることになる。提案案件は計量法令への改善要望であればその解決の方向に向かって、注意深く粘り強く絶えず前進しなければならない。

 計量法令を骨格とする計量文化はその国々にさまざまな形で根付き、成長していくものである。先に本紙に寄稿があった石井正國氏のパラグアイにおける計量事情の報告はこのことを強く感じさせる。日本の国に根付いている正しく計量しようとする意識は貴重であり、この意識を計量法令や行政執行の不備によって後退させることがあってはならない。

 計量の専門家が多数集まった場で議論される計量法令論議は厳粛でなければならないし、法令と現実とのズレが大きくある場合にはしかるべく必要な措置を講ずるのは当然である。会議に出席する人は正々堂々と自信をもった態度で臨んで欲しい。計量の事業に従事する人々の積極的な行動こそが日本の計量文化を育み、発展させる土台になるからである。

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■社説・人類の科学知識に対する欲望と計測(02年9月22日号)

 人は計ることによっていろんなことを知るようになった。夜空に広がる星は人にそれを知ろうとする欲求を生み出し、古代エジプトの人々は天体の運行から季節を知り、ナイルの氾濫を予測しようと努めた。現代では宇宙観測のさまざまな試みがなされ、日本の文部科学省の天体望遠鏡「すばる」はその素晴らしい性能によって、それまで見えなかった宇宙の姿を捉えるようになった。

 「すばる」反射望遠鏡は計測技術を基礎にしてつくられたもので、その有効径は8・2mである。世界では別な方法によって有効径100mの天体望遠鏡をつくろうとする動きがあり、ここに人類の科学知識に対する限りない欲望を垣間見ることができる。

 アメリカの月に人を送り込むアポロ計画は大衆を熱狂させる見せ場のある科学イベントであった。このアポロ計画では月と地球に関して興味深い事実を突き止めており、それは計測によって実現されている。

 月の質量の精密測定と月と地球の距離の精密測定がそれである。

 月の質量の精密な測定は、1968年12月24日に月を10周回した、アポロ8号宇宙船で初めて行われた。つづいてアポロ10号、11号、12号、14号、15号、16号、月探険最終便となった17号で行われた。アポロ宇宙船が、月へ接近していくときの加速度の変化率から算出した月の質量は、地球の8万2202分の1に相当する、7348×10の19乗キログラム(7348京トン)であった。

 地球から月までの精密な距離の測定は、月面に6台設置した月レーザー反射鏡(LRRR)を使って行われた。米アリゾナ大学マクドナルド天文台に設置した月レーザー光線測距システムから発射されたレーザー光線が、LRRRで反射して地球へ戻ってくる地球と月の間を往復する時間から、地球と月の正確な距離を測定したのである。

 マクドナルド天文台での月レーザー光線測距システムによる観測は、1969年8月から1989年4月まで続けられた。その後、1992年5月から9月にかけて、再度の測距観測が行われた。日本の国立天文台(旧・東京天文台)堂平山観測所にも、1975年に月レーザー測距装置が設置された。現在は、オーストラリアヘ運ばれ、「カンガルー」と名称がつけられて稼働している。

 米マクドナルド天文台の月レーザー光線測距システムによる20年間の観測データを分析した結果、月は1年に3・8cmの割合で遠ざかっていることが分かった。従来の計算では、1年に3・4cmずつの割合で遠ざかっていくと算出されていたものが訂正された。

 月と地球と生物と人間には抜き差しならない関係がある。ホモサピエンスが誕生するころ、月は28日周期で地球を周回していた。人は類人猿から別れて進化する課程で、交尾期のような瞬発的なホルモン支配から解放されたが、そのホルモンは28日周期で働くように遺伝子に組み込まれた。

 現代の月の運行周期30日は、月と地球が少しずつ離れていった結果であり、現在では年に3・8cmずつ遠ざかっているが、太陽と地球と月の引っ張り合いがあるため、地球から限りなく遠ざかっていってしまうことはない。

 昔々の人には月は今よりもはるかに大きく見えた。その月の運行を動物の骨に刻んだことが判明している。この月の運行を記録した骨によって人類が数を数えていたことがわかったのである。

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■社説・計量という文字への歴史的考察(02年9月8日2459号)

 計量という言葉への歴史的考察の一文があるのでこれを紹介して諸賢の判断を仰ぎたい。

 「計量という文字は紀元前7世紀に中国の本に出てくる。日本では江戸時代になってから使われた。計測という文字は日本の明治時代に使われた。計るという意味であった。昭和になって計測自動制御学会ができてから普及し、JIS用語に採用されて急速に普及し、一部では計量と異なるとされている。

 中国の北京にある計量出版社が創刊以来10年目までに計量と計測という文字を一部に使った本を100冊出版した。そのうちで計測という文字を使った本4冊はすべて日本人の著者の訳本であった。中国の計量という文字は計量本来の意味の他に、品質という意味も含まれている。

 計量ほどではないが、測量という文字も使われている。日本の測量という意味ばかりでなく、広く測定という意味に使われ、専門家も計量と測量を混同して使う人がいる。元来、測とは水の深さを計ることから出た文字である。」 以上が、計量と計測をつらねて使う用例、あるいは計量を計測と言い換える用例に対して寄せられた文章である。

 役所の名前に計量検定所、計量検査所があり、計量団体の名称に計量協会がある。計量研究所の研究部門は産業技術総合研究所計測標準研究部門、旧計量教習所は計量研修センターに、計量部門をまとめて計量標準総合センターという名称になった。

 計量という文字を組織の名に付しているところは落ち着きが悪い状態がつづいていただろうから、上記のような計量という文字に対する歴史的考察によって胸をなでおろしたり、意を強くする人々がいることであろう。

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■社説・計量法と日本の社会への適合性(02年9月1日2458号)

 計量法が取り扱う世界を「法定計量」とよび、その制度内容をあらわす場合に「法定計量システム」という呼び方が官界を中心にしてなされるようになっている。計量計測に関係して諸事業を行う者には、この世界は依然として「計量法」と呼ばれる世界であるから、同じことを言いあらわすのに二つの言葉が世の中に平行して存在する。

 計量法の世界は、商取引と証明に関係して適正な計量を実現するために、計量器の供給とその使用を定めており、このために都道府県や市町村に監督・取り締まり等の役目をもつ行政機関を設置している。計量法の取り締まりの対象となる計量器は特定計量器という名を付けられており、原則として公的機関による検定を受検しなければならない。製造事業者は所定の技術の製造方法の手順等が基準にかなえば指定製造事業者として認定され、公的機関による検定と同じ効力を有する基準適合証印を付して、製造した計量器を供給することができる。また取引・証明に使用される質量計は、原則として検定証印もしくは基準適合証印が付されていなければならないうえ、使用中は2年に1度の周期で定期検査を受検しこれに合格しなければならない。定期検査の実施主体は都道府県知事および特定市町村長であるが、この業務は所定の資格・能力をもつ者を指定して実施させることができる。これを指定定期検査機関制度といい、地方の計量協会あるいは民間の検査事業者などが指定を受けて定期検査を実施している。

 計量法の世界は、計量に関係してすべてを司るものという印象のもと、そのように認識してきたのがこれまでの計量関係者ならびに一般の人々であった。ISOやIECの規格は昔からあって、特にISOはネジの規格に代表されて重要な規格として産業界と国民に認識されてきた。ここにきてISOの品質システムに関する規格の9000シリーズや環境保全に関する規格の14000シリーズが脚光を浴びるようになり、これら9000シリーズ、14000シリーズが、計量の世界に計量標準のトレーサビリティ証明を求めることにより、別の側面から計量が認識されるという状況にある。ISOの品質保証にからむ規格戦略は大いに効を奏している。

 どんな事業部門においても計測がかかわらないことはないので、必要な計測標準は国家標準とのトレーサビリティを求められるので、ここにトレーサビリティ証明のとれた標準器あるいは計測器が供給される。取引証明にかかわり、特定計量器が指定されている計量器を使用する分野では検定証印もしくは基準適合証印が付されたものの使用が義務づけられている。

 日本の計量法が国民生活と産業社会の健全な発達のためにどのような役割をもっているのか。役割を果たすために現在の計量法が十全なのかそうでないならば目的達成のために法自体の手直しをしなければならない。ISOの規格戦略の成功をみるにつけ、計量法の地味さがわかるのであるが、計量法は目的達成のためもう少し自己演出してもいいのではないかと思われる。

 ISOの戦略の成功と対比すると、OIML(国際法定計量機関)の存在が薄れてみえる。OIMLは、国際社会に共通する法定計量制度の在り方などを確固たるものとして策定する機関である筈なのだが、この仕事が上手くいっていない。もともと複数国家間の複雑な法定計量制度の調整を目的として発足した筈のOIMLであっても、そうした文化の異なる国家間の調整は言うべくして実現の困難なことであり、イージーな運営に流されている。そのOIMLはアメリカの脱会表明があった。さらに実力ある国際規格の流れと共生していくだけの配慮すら著しく欠いている。このままでは「欧州の古手の法定計量公務員の収容所」という酷評もある(OIML設立当時の某所長の述懐)という。OIMLは設立時にはそれなりに役割を期待されていたが、最近では単なる計量器(それも拡大解釈と疑問視されるものまで)の規格制定などに走り、まったく国際機関としての存在感を薄めている。以上のことは、計量研究所OBで現代計量史研究に情熱を注ぐ多賀谷宏氏が指摘するところである。(『計量史研究』19、多賀谷宏「予測2001年日本の計−現代日本計量史からの啓示をもとに−」より)

 OIMLは国際度量衡委員会への統合(見方によっては合併吸収)の動きがあり、実現の段階まで漕ぎ付けていたがある重要な委員間の感情のもつれからこれが頓挫した。

 日本の計量行政にかかわる人々は、計量法の上位にOIMLがあると考え(これはOIML加盟国は定められた規格を遵守する道徳的義務を負うから当然ではあるが)を純情にも強くもっている。OIMLが十分に信頼に足るべく運営されていればそれでもよいが、国際機関には開店休業の状態のところも散見されるから、こことどれだけの距離を置くかは政治判断が求められる。

 日本の計量制度と世界の計量制度が国際的な計量制度を定めるOIMLの規定する制度内容と同一でほぼ完全に一致することが望ましいが、現実はそうではない。日本がOIML規格に完全に倣おうとしても、そうでない大国が存在し一本になることは100年大河の濁りのとれるのを待つに等しい。その国の商慣習や文化の違いが法定計量の世界に反映することになるので、一つにはなりにくいのである。

 日本における望ましい計量制度を真剣に模索することが何より大事である。同時にOIMLとうまく融合するような配慮は当然ながらしなければならない。多賀谷宏氏が鋭く指摘するようにOIMLが「設置目的の喪失で国際機関の整理対象に入った」状態であるとすれば、関係者はその姿をよく見ておかなくてはならない。日本の計量制度の未来を考える人々に不足しているのは、この日本にどんな計量制度が必要なのかという真剣な問いかけである。ともするとOIMLにとらわれてしまい、自国、自分たちに必要なことを忘れがちになる。

 OIML規格の一部にこだわって日本の計量制度に上手く適合している規定を闇雲にいじることはいいことではない。また計量法の定めにあることを、法の定め、規定を変更する前に担当官が「このようにしたい」と述べたことが、文章になって地方の計量協会その他に配布され、新しい定めとして伝わり、後にこれが文書で訂正されたことがあった。法の定めに従ってこそ計量法の円滑な施行があるにもかかわらず、改正前から口頭で別の法とも規定ともとれる説明をし、関係の文章が関係者に流布されるということは計量法の世界にあってはならないことである。行政者自らが計量法という法の執行の権威をはずかしめている行為といってよいように思われる。多賀谷宏氏が指摘するOIML運営をみるにつけ、日本の計量制度の確かな未来を保証するものは所管省庁の正しい認識であり、またこの制度を真に理解した経験者・有識者達の知恵を広く集めることである。

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